「なんと、か弱い。それでも竜狩りか?」
竜の口から、呆れたような声が漏れる。竜が向ける視線の先には、強靭な前脚の下敷きにされた人間の姿が。
「ぐ……このっ……」
竜の体重は、地面を砕き、ひび割れを作っている。普通の人間なら簡単に潰されてしまうだろう。それでも彼が無事なのは、彼もまた、竜狩りの一人だからだ。
竜狩り。この世界において、天災にも等しい魔物“竜”を討ち倒す彼らは、人間たちの希望そのものだ。だがそれでも、常に勝てるわけではない。
「可哀想に。我がもっと若ければ、このようなことにはならなかっただろうに……クフフ♪」
ニンマリと笑みを浮かべ、舌舐めずりする竜。竜の腹はかすかに膨れ、中からうめき声が聞こえる。今夜の犠牲者は、彼だけではない。彼の先輩や仲間だった竜狩り達は、すでに竜の夕餉となってしまっていた。
「ほれほれ。早く助けないと、お前の仲間が力尽きてしまうぞ?」
竜は、踏みつけた彼を引きずって腹に近づける。彼は、胃袋の中の音をはっきりと聞いてしまった。 闇の中に囚われた不安。体が溶けていく恐怖。外界を求める懇願と祈り。そしてそれをかき消すような、内容物をこなす水音。気のせいか、声の数も少なくなっていた。
「ふざけるな……返せ、仲間を返せぇぇぇっ!!!」
先輩が、仲間たちが、竜の中で殺されていく。その怒りが、彼の表情を歪める。そして彼は、片手に握っていた短剣を、竜の前脚に向かって振りかざした。
「むっ……!」
短剣が、竜の前脚に振り下ろされる。その切っ先が当たるよりも早く、竜は、すばやく後方に飛び退く。その直後、竜がいた場所が、轟音を立てながらひび割れ、崩れた。割れた地面の中心には、地面へ向かって突き立てられた短剣が刺さっている。
「フゥゥー……ッ」
歯を食いしばりながら、彼は静かに息を吐く。そして、視線を上げ、竜をしっかりと見据えた。
「返せ……」
彼は、ゆっくりと立ち上がりながら、地面から短剣を引き抜く。それから、切っ先を下に向けて握り、体を前へ傾ける。
「みんなを返せ……っ!」
静かな声を絞り出すと、彼は地面を蹴った。地面に重い衝撃が走り、彼の体は一気に飛ぶ。たった一歩の踏み出しで、彼は10mもの距離を移動した。その勢いのまま、彼は竜に迫る。
「ぐっ……貴様……!」
竜狩りの短剣が迫る。それを見た竜は、すばやく体を回転させ、迫る彼に背を向けた。短剣の刃先が竜の背中に当たる。だが、硬い甲殻の上を刃が滑り、刺さることなく弾かれた。
刃をいなした竜は、回る勢いに任せ、自身の尾を彼に叩きつける。短剣を弾かれ、竜の背中を滑っていた彼は、横から直撃した尾で弾き飛ばされた。
「ぐぁぁっ!……ぐっ……!」
飛ばされた彼は、地面に当たって跳ね、さらに遠くへ飛んでいく。だが、跳ね返って二度目に落下したとき、彼は短剣を地面に突き刺して勢いを殺した。間髪を入れずに、彼は再び地面を蹴り、竜に迫る。
「クク……威勢がいい童だのう!」
迫りくる彼を見て、竜はニンマリと笑い、ベロリと舌舐めずりをした。それは、仲間たちを巻き取り、次々に呑み込んでいった舌。自分も餌と見られている。その事に気付き、彼の鼓動はさらに跳ね上がった。
彼が竜に斬りつけようとしたとき、竜は後方に飛び退いた。斬りつける位置がずれ、彼は地面に足をつく。その瞬間、竜が前脚を彼に向かって振り、鋭い爪で切り裂く──はずだった。
「グルゥ!?」
竜狩りの彼は、横から来た爪を短剣で受け、刀身の上で滑らせた。竜の腕力を受け止め、それを自身の加速に変える。その勢いで、彼は竜の懐へ滑り込んだ。竜の視界から彼が消えた直後、竜の後脚が、小さな刃で切り裂かれた。
「ギャアゥゥゥ!!」
竜の口から、コトバとは異なる音が放たれる。竜が生まれながらに持つ本来の“声”。ヒトの言葉を真似られなくなるほど、竜は追い詰められていた。
竜の後脚に切りつけた彼は、短剣を地面へ刺し、滑る軌道を回転させる。方向を変え、竜の頭が視界に入ったとき、彼は再び地を蹴った。竜は姿勢を崩し、倒れはじめる。加速する彼の視界の中で、竜の転倒は、とてもゆっくりとした動きになっていた。
「トドメだ……!」
切っ先をまっすぐに向け、竜の頭に突き刺そうと迫る。倒れる竜の視線はこちらに向いていない。勝った!彼は確信し、短剣を両手でしっかりと掴みなおすと、眼前に近づいた竜の頭蓋に剣を突き出した。
金属がぶつかりあったような硬い音が鳴り響く。それは、短剣が竜の頭に届いた音。切っ先が竜の頭部に潜り込んだ音。だが、竜の命を奪うことはなかった。
「えっ……?」
彼が突き出した切っ先は、牙でガッチリと挟まれ、固定されていた。何が起きたのか理解できず、彼は混乱する。だが、理解する暇は無かった。
加速していた彼の体は、そのまま竜に激突してしまう。衝撃で、彼の体が横向きになる。腕がねじれ、短剣を掴んでいた指の力が弱まる。竜はその瞬間を見逃さず、短剣を噛んだまま首を横に振った。
彼の体に、急激な勢いがかかる。予測していない加重が、彼の体を嫌な方向へ曲げてしまう。そして彼は、短剣の柄を手放してしまった。遠くへ飛んで行く短剣。硬い刃が地面に当たり、カラカラと音をたてる。その音は、反響しながら彼の耳に入った。
「ああ……だめだ……ダメだ……!」
一刻も早く短剣を取り戻そうと、彼は音が聞こえた方へ視線を向ける。……否、向けようとした。だが、頭を動かすよりも前に、彼は地面へ激突した。
「カハッ!」
彼の口から妙な声が漏れる。いや、正確には“声”ではない。落下の衝撃で肺が押され、息が漏れ出て発した音だ。
「グルル……本気で我に勝つつもりでいたのか?」
竜はグルグルと唸りながら、倒れた彼に声をかける。竜は彼に近づくと、首を伸ばし、彼を真上からじっと見つめた。だが、彼は震えるばかりで、再び立ち上がることもできない。
「お前の仲間のほうが、もう少し手ごわかったぞ?そう……」
竜は彼に前脚を乗せる。そして、さっきのように体重をかけた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!ぎゃあ゙あ゙っ!!」
メキリと音がして、彼は悲鳴を上げた。さっきまで耐えていたはずの彼の骨は、軽く踏まれただけであっさりと折れてしまった。
「こうして神器を奪われ、加護を失っても、もう少し抵抗していた。クフフ……か弱い」
竜が、彼の体から足をよける。短剣を失い、“加護”を喪失した彼の体は、竜の重みに耐えきれず、所々から血がにじみ出ていた。
「い……ひっ……くそ……あと少しだったのに……」
「おや、我を追い詰めたつもりでいたのか?」
悔しがる彼に、竜は後脚を見せる。しっかりと切りつけたはずなのに、そこから血は流れていなかった。
「お前の策略などお見通しよ。切り口が浅くなるよう、傾きを変えてやった」
「そんな……でも、悲鳴を上げて……」
「クフフ……我の声を信じるとは。なんと愚かな奴め」
竜はペロリと舌舐めずりをする。美味しそうな肉がまた手に入った。その喜びが、ニンマリと歪む竜の口角に現れていた。
「まあ、よい。童にしてはよくやった。その強さ、誇るが良い」
血が滲む彼に、竜は鼻先を当てる。そして、彼を、ペロリと舐め上げた。
「我の腹の中でな」
そう告げると、竜はグワッと口を開けた。熱い熱気が彼に吹きかかり、髪を揺らす。
「やだ……やめろ……やめろぉ……!」
恐怖で染まりきった彼は、必死に這って逃げようとする。だが、30cmも進まぬうちに、彼の体に、竜の舌がのしかかった。
「ぎぁぁっ!」
傷に舌が当たり、彼の喉から悲鳴が漏れる。痛みで体はピクリと震え、這うこともできなくなった。直後、竜の牙が、彼の体を下からすくうように持ち上げた。
バクンと音がして、竜の顎が閉じる。彼が這っていた場所には、唾液と血の跡だけが残っている。彼はもう、竜の口の中だった。
「うぁぁっ……やだ……止めて……ヤメテ……」
傷口に唾液がしみる。蒸し暑い吐息で呼吸も苦しくなる。すっかり戦意を失った彼は、なんとか逃れようと、閉じた牙に手を伸ばす。硬い竜の歯に触れ、こじ開けようと指をかけたとき、彼を支えていた舌が突然持ち上がった。
「んぶっ……!!!」
柔らかな舌で押された彼は、口蓋──上顎に接する硬い箇所と、舌の間に挟まれてしまう。背中を硬い口蓋が、腹と顔を柔らかな舌が包み、彼はもう、声を発することもできなくなってしまった。
舌の先の圧迫が強くなる。舌の根と舌先で圧力の差が生まれ、彼の体が、奥へ奥へと滑り始めた。体を撫でる舌の感覚に反応し、彼はモゴモゴと声を立てる。だが、彼の体はどんどん奥へ流されていった。
頭が、柔らかな食道の肉に包まれる。続いて胸、腹、股、足首と続く。彼は後ろへ手を伸ばし、牙の凹凸に指をかけて抗おうとした。だが、竜の嚥下は力強く、人間の指の力で抑え込めはしない。
舌の付け根が閉じる。ゴクリと音がして、竜は首を膨らませた。膨らみはどんどん下がっていき、胴体の中へと消えた。膨らみの動きを見届けた竜は、ペロリと舌舐めずりをすると、小さなゲップをした。
竜が舌舐めずりをした時、彼の頭は、胃袋の中に入り始めていた。収縮していた入口を押し広げながら、ドロドロに濡れた頭があらわれる。頭が出てきたと同時に、重力に引かれて、彼の胴体もスルスルと滑り込んだ。狭い胃袋の僅かな隙間に、彼の体が滑り込む。全身が胃袋の中に滑り込んだとき、食道と胃袋を繫ぐ噴門は、再び収縮し、固く閉じた。
「まずい……」
竜に喰われれば、まず生還することはない。それは、彼も知る常識だった。人を喰った竜を討伐しても、腹の中から救出されるときには、すでに溶けていることがほとんど。その事が、暗い腹の中ではっきりと思い浮かんでしまう。
「ウッ……ッ……」
体にまとわりつく、不快な体液の感覚。傷口から流れ出る、吐きそうな血の香り。彼は、おぞましい竜の腹の中で、目を閉じながら、ただ泣くことしかできなかった。
だがその時、彼の脳裏に、ある話が浮かび上がった。竜に喰われた竜狩り達が、腹の中で力を合わせ、無事に脱出した話を。人伝に聞いたあやふやな噂。しかし、この絶望的な状況では、それが唯一の希望だった。
「先輩っ……みんなっ……どこですか……っ!?」
彼は胃袋の中を這いながら、先に呑まれたはずの仲間たちを探す。狭い胃袋の中で、胃壁を押して進みながら、仲間たちのいどころを探す。だがいくら奥に進んでも、仲間の体はおろか、服の一部さえ見つからない。
「おや、仲間を探しているのか?」
その時、あの忌まわしい竜の声が聞こえる。低い声で胃袋を震わせながら、捕食者は続けた。
「お前の仲間なら、お前と遊んでいるうちに、すっかり溶けてしまったわ」
その返答を聞いた途端、彼は察した。胃袋の中に溜まっている、この濃い血の香り。自分のものだとばかり思っていたこの臭いが、仲間たちが遺した唯一の痕跡なのだと。
「うぁ……ぁ……」
自分を鍛えてくれた先輩も、ともに戦ってきた仲間たちも、もう、跡形もなくなり、血の香りに変わってしまっている。その事実を突きつけられ、彼は低い声を漏らしながら、静かに涙を流した。
「おやおや、仲間を失ったのがそれほど辛いのか?」
腹の中で震え、うめき声だけを漏らし始めた彼に、竜は優しい声色で話しかける。
「クフフ……安心するがいい。お前もすぐにとろかして、仲間とともに、我の糧にしてやろう」
腹をさすりながら、竜は小さな獲物に囁く。その時、腹の中では、少しずつ胃液が分泌されはじめていた。
「あ……ああ……ぎゃっ!」
虚ろな目でうめいていた彼の意識を、胃液の痛みが引き戻す。消化液で濡れた胃壁が、彼を締めつけながら揉み、皮膚に胃液を擦り込み始めた。
「ぁぁ……やだぁ……やだぁ!!」
痛みはじわじわと全身に広がる。なんともなかった皮膚も、痒みを感じ、やがてそれは痛みに変わる。数人もの人間をたやすく溶かす竜の消化液は、彼の身体も容赦なく侵食していった。
「助け……ダズゲ……カッ……ガ……」
助けてと叫びながら、彼は蠕動を必死で押さえ、胃壁の激しい抱擁から逃れようとする。だが、胃液はどんどん分泌されていく。押さえる腕はメキョリと折れ、声を発していた喉も潰れてしまった。赤く染まっていく彼の口から発せられたのは、もはや声ではない。痰を吐くような、ゴポゴポという音だけだった。
「クフフ……もう話す事もできぬのぅ……♪」
小さくなっていく腹をさすりながら、竜は嬉しそうに言う。
「お前の命も、しっかりと我の糧にしてやろう」
竜は、腹の膨らみにそう告げると、洞窟に響く大きなゲップをして、体を丸め、眠り始めた。竜に挑んだ者達の痕跡は、砕けた地面や石の破片と、竜の目の前に残る血と唾液が混ざった跡。そして、竜の腹の中から聞こえる、かすかな水音だけだった。