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魂喰 / #02 喰われた者を背に逃げる

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「こんなに美味しそうなゴハンを見つけられるなんて…♪」

巨大な生き物は、ヒト一人を呑み込んだ口で舌舐めずりをしてから、はっきりと、そうつぶやいた。

「ゴ…ゴハン…?」

「あら、良かった。固まっていたから、通じていないのかと思っちゃったわ」

自分に向けられたその言葉を、思わずボソリと復唱する青年。体をこわばらせる彼に、生き物は顔を近づけ、ニッコリと笑みを浮かべる。

「ゴハンって…今…食べて…あれ…アレは…」

彼は体をピクピクと震わせ、冷や汗をかき、しどろもどろな話し方でそう声を出す。混乱と恐怖に包まれた彼は、絞り出したような声をだすので精一杯。

「フフ…もしかして、今私が食べたゴハンの事を言ってるの?」

そんな彼の目の前で、生き物はゆっくりと口を開け、優しげな声色で語りかける。

「二匹で楽しそうにしていたから、私が両方とも食べちゃったの」

舌と牙を彼に見せつけるように、生き物は大きな口を動かす。

「あの箱の中にいたから、先に一匹引きずり出して──」

生き物は、前脚の爪で彼の背後を指差す。そこにあるのは、事故を起こしてひしゃげた、誰も乗っていない自動車。

「それからもう一匹も追いかけて、捕まえてあげたの」

彼は、生き物の口の中を見てしまう。白く大きな牙。テラテラと光る分厚い舌。そして、喰われた獲物が消えていった、喉の奥の暗闇。

「でもね、一匹を食べたら、もう一匹は気絶して、すぐに動かなくなっちゃったのよ。可愛く鳴いてくれるかと思ったのに…残念」

生き物が、頭部を彼の真上へ動かす。地面に立つ彼を、上から見下ろすような位置へ。

「あなたは気絶しないでね?お腹の中でも、しっかりと鳴いてもらうんだから…♪」

その一言を発した直後、生き物は大きく口を開け、彼に喰らいつかんばかりに頭を下げた。

「うわぁぁっ!!」

一気に迫る巨大な口。見上げていた彼は、甲高い悲鳴を上げて倒れた。

ガキンッ!

地面に倒れた彼の真上で、生き物の牙がガッチリと閉じる。その距離、わずか30センチ。

「あら、避けたの?」

頭を上げた生き物は、地面に倒れた彼を見て言う。

「まずい…マズイ…っ!」

彼は必死の形相で立ち上がると、何度も倒れそうになりながら、フラフラと走り出した。

「フフフ…どこへ行くつもり?」

背後から、生き物の声が聞こえる。彼はそれを振り返ることもなく走り、壁に立てかけていた自転車へすがりついた。

(逃げないと…逃げないと…逃げなきゃ…逃げなきゃ…!)

まるで念仏のように、心の中で何度も繰り返しながら、彼は自転車に飛び乗り、力任せにぎだした。

彼の視界に、自分の家の姿がうつる。畑と林に囲まれた、およそ9軒の家々。その中の、見慣れた一軒家。家と家の間に続く、短い道路へのT字路。そこを曲がれば、もう目と鼻の先だ。自転車を旋回させ、曲がろうとした、その時。

「ギャアッ!!」

力任せにこいでいた左足に、強い激痛が走った。口からは悲鳴が漏れ、自転車ごと道に倒れてしまう。

「ハァ…ハァ…ッ!」

左足がズキズキと痛む。家の入口まであと5メートル。彼は自転車を押しのけると、びっこを引いて歩きだした。

ったのか何なのか知らないけど…こんな足で自転車をぐくらいなら、歩いたほうがずっとマシだ…!)

青い顔をした彼は、体を震わせながらノロノロと歩き、なんとか玄関までたどりつく。とうとう自宅についたという安心感からか、彼はドアノブを掴んだままへたり込んでしまった。

「そこがあなたの棲家すみかなの?」

そんな彼のすぐ後ろ、20センチほどの至近距離から、優しげな声色が聞こえた。彼の首筋を、生暖かい吐息が撫でる。

「ギャアアッ!」

後ろを振り返ることもせずに、彼は玄関のドアを開き、中へ滑り込むようにして入った。そして、すばやく扉を閉め、カギをかける。玄関の扉から、彼はジリジリと後退りする。その時、後ろから声がかけられた。

「どうしたの!?今の音は?」

焦りが混じったその声は、彼が聞き慣れていた母親のもの。

「あ…ああ…お母さん…」

彼は声を震わせながら、母親の方を見る。彼は、ドアのカギから手を放し、体を反転させて母親の方を向く。

「ただいま…っ」

やっと帰ってきた。そう実感した途端、彼の目からは涙が溢れ出した。鼻に涙が入り、意図せず涙声を発してしまう。

「おかえ──どうしたのその足!?」

「…へ?」

おかえりと言いかけた母親は、大声を上げた。彼が、母親の視線の先を見ると──

左足が、赤く染まっていた。いや、正確には、出血でズボンが赤黒く変化していた。太ももの側面がざっくりと切れ、そこからダラダラと血が流れ出ている。血は足をつたって、玄関の土間にポタポタと滴り落ちている。彼の脳裏に、さっき左足に走った激痛が思い浮かんだ。筋肉痛かと思っていたあの痛みは、深さ1センチはありそうなこの怪我の痛みだった。

「あっ…ウ、ギギギ…ガ…ァッ…!」

怪我の存在を認識した途端、足がひどく痛み始める。強い痛みで、彼の額は汗ばみ、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れ出た。逃げることに必死だった彼の体は、怪我の痛みを無視し、彼を歩かせていた。だが、怪我の存在を自覚した今、もはやそれは無視できるものではない。彼の体は、忘れていた痛みを元に戻してしまった。

「ま、待ってて!今から病院へ行こう!準備するからそこで──」

「ひっ!?だ、だめっ!」

慌てた母親は、病院へ向かおうとする。焦る母親の言葉を聞いた途端、彼は必死に止めた。いま外に出れば、アレが、あの生き物がいる。車の中のヒトも引きずり出して喰ってしまうバケモノが。

「だめって…でもその怪我、すぐに病院へ行かないと!」

「いや、今は…今は駄目…それより、包帯!包帯とガーゼ持ってきて!圧迫止血するから!…ガァッ!」

「わ、分かった…持ってくるね」

彼に急かされるまま、母親は部屋の奥に入る。しばらくして、母親は包帯とガーゼ、それから消毒薬を持ってきた。

「はい。ガーゼと包帯と…消毒薬。大丈夫?服は脱げる?」

母親に手伝われながら、彼は上着とズボンを脱ぎ、ゆっくりと廊下に座った。

「まず先に消毒を──」

「消毒はいい。傷が深いから…先に、止血を…ウッ…いたっ…」

彼は、パックリ開いた傷にガーゼを押し当てる。それから包帯を強く巻き、しっかりと縛った。

「はい、タオル」

「ありがと」

母親が、彼に濡れたタオルを渡す。血で染まった靴下を脱ぎ、彼は足をタオルで拭き取った。

「おいおい、どうした?」

この騒動をききつけたのだろう。廊下の奥から、彼の父親が歩いてきた。

「この子、怪我して帰ってきたみたいで…」

「怪我って…どんな怪我だ?」

「えーっと…」

彼は、怪我の様子を思い浮かべながら、慎重に答えた。

「…深さおよそ1cm、幅およそ1.0から1.2cmの…切り傷」

「そんな細かくなくていい。重症じゃないか…すぐに病院に──」

「だ、だめっ!」

母親と同じく病院へ行こうとする父親を、彼は再び止める。

「どうしてだめなの?」

「だって──」

外には怪物がいる。そう言おうとしたとき、彼は口を止めた。そう言ったところで、はたして両親は信じるだろうか。いつもみたく、変なことを言っているのだと言われて、病院へ行こうとするのではないだろうか。もし、無理矢理にでも連れ出されたら…

「…だって、夜中に来られたら病院が迷惑するでしょ?」

「なに言ってるの!そんな大怪我、むしろ行かなきゃ駄目でしょ!?」

「大丈夫、ただの怪我だから…それに、もっと重症の人が他にもいるって。そういう人が行くべきなんだよ…」

「でも──」

「明日!ね?行くのは明日!明日の朝に──ウッ…?」

そこまで言いかけたとき、彼の視界がぐらりと歪んだ。平衡感覚がおかしい。頭がぼんやりとする。彼はそのまま、廊下にバタリと倒れてしまった。

「大丈夫!?ねぇ、しっかりして!」

母親の声が聞こえる。だが、頭がクラクラして、なんだか聞こえ方がおかしい。

「出ないで…」

意識が朦朧とする中、彼は何度も呟いた。

「出ないで…家から出ないで…出ちゃだめ…出ちゃ…」

何度も何度も、うわ言のように呟きながら、彼は意識を失ってしまった。