「こんなに美味しそうなゴハンを見つけられるなんて…♪」
巨大な生き物は、ヒト一人を呑み込んだ口で舌舐めずりをしてから、はっきりと、そうつぶやいた。
「ゴ…ゴハン…?」
「あら、良かった。固まっていたから、通じていないのかと思っちゃったわ」
自分に向けられたその言葉を、思わずボソリと復唱する青年。体をこわばらせる彼に、生き物は顔を近づけ、ニッコリと笑みを浮かべる。
「ゴハンって…今…食べて…あれ…アレは…」
彼は体をピクピクと震わせ、冷や汗をかき、しどろもどろな話し方でそう声を出す。混乱と恐怖に包まれた彼は、絞り出したような声をだすので精一杯。
「フフ…もしかして、今私が食べたゴハンの事を言ってるの?」
そんな彼の目の前で、生き物はゆっくりと口を開け、優しげな声色で語りかける。
「二匹で楽しそうにしていたから、私が両方とも食べちゃったの」
舌と牙を彼に見せつけるように、生き物は大きな口を動かす。
「あの箱の中にいたから、先に一匹引きずり出して──」
生き物は、前脚の爪で彼の背後を指差す。そこにあるのは、事故を起こしてひしゃげた、誰も乗っていない自動車。
「それからもう一匹も追いかけて、捕まえてあげたの」
彼は、生き物の口の中を見てしまう。白く大きな牙。テラテラと光る分厚い舌。そして、喰われた獲物が消えていった、喉の奥の暗闇。
「でもね、一匹を食べたら、もう一匹は気絶して、すぐに動かなくなっちゃったのよ。可愛く鳴いてくれるかと思ったのに…残念」
生き物が、頭部を彼の真上へ動かす。地面に立つ彼を、上から見下ろすような位置へ。
「あなたは気絶しないでね?お腹の中でも、しっかりと鳴いてもらうんだから…♪」
その一言を発した直後、生き物は大きく口を開け、彼に喰らいつかんばかりに頭を下げた。
「うわぁぁっ!!」
一気に迫る巨大な口。見上げていた彼は、甲高い悲鳴を上げて倒れた。
ガキンッ!
地面に倒れた彼の真上で、生き物の牙がガッチリと閉じる。その距離、わずか30センチ。
「あら、避けたの?」
頭を上げた生き物は、地面に倒れた彼を見て言う。
「まずい…マズイ…っ!」
彼は必死の形相で立ち上がると、何度も倒れそうになりながら、フラフラと走り出した。
「フフフ…どこへ行くつもり?」
背後から、生き物の声が聞こえる。
彼はそれを振り返ることもなく走り、壁に立てかけていた自転車へすがりついた。(逃げないと…逃げないと…逃げなきゃ…逃げなきゃ…!)
まるで念仏のように、心の中で何度も繰り返しながら、彼は自転車に飛び乗り、力任せに漕ぎだした。
彼の視界に、自分の家の姿がうつる。畑と林に囲まれた、およそ9軒の家々。その中の、見慣れた一軒家。家と家の間に続く、短い道路へのT字路。そこを曲がれば、もう目と鼻の先だ。自転車を旋回させ、曲がろうとした、その時。
「ギャアッ!!」
力任せにこいでいた左足に、強い激痛が走った。口からは悲鳴が漏れ、自転車ごと道に倒れてしまう。
「ハァ…ハァ…ッ!」
左足がズキズキと痛む。家の入口まであと5メートル。
彼は自転車を押しのけると、びっこを引いて歩きだした。(攣ったのか何なのか知らないけど…こんな足で自転車を漕ぐくらいなら、歩いたほうがずっとマシだ…!)
青い顔をした彼は、体を震わせながらノロノロと歩き、なんとか玄関までたどりつく。
とうとう自宅についたという安心感からか、彼はドアノブを掴んだままへたり込んでしまった。「そこがあなたの棲家なの?」
そんな彼のすぐ後ろ、20センチほどの至近距離から、優しげな声色が聞こえた。彼の首筋を、生暖かい吐息が撫でる。
「ギャアアッ!」
後ろを振り返ることもせずに、彼は玄関のドアを開き、中へ滑り込むようにして入った。そして、すばやく扉を閉め、カギをかける。玄関の扉から、彼はジリジリと後退りする。その時、後ろから声がかけられた。
「どうしたの!?今の音は?」
焦りが混じったその声は、彼が聞き慣れていた母親のもの。
「あ…ああ…お母さん…」
彼は声を震わせながら、母親の方を見る。彼は、ドアのカギから手を放し、体を反転させて母親の方を向く。
「ただいま…っ」
やっと帰ってきた。そう実感した途端、彼の目からは涙が溢れ出した。鼻に涙が入り、意図せず涙声を発してしまう。
「おかえ──どうしたのその足!?」
「…へ?」
おかえりと言いかけた母親は、大声を上げた。彼が、母親の視線の先を見ると──
左足が、赤く染まっていた。いや、正確には、出血でズボンが赤黒く変化していた。太ももの側面がざっくりと切れ、そこからダラダラと血が流れ出ている。血は足をつたって、玄関の土間にポタポタと滴り落ちている。
彼の脳裏に、さっき左足に走った激痛が思い浮かんだ。筋肉痛かと思っていたあの痛みは、深さ1センチはありそうなこの怪我の痛みだった。「あっ…ウ、ギギギ…ガ…ァッ…!」
怪我の存在を認識した途端、足がひどく痛み始める。強い痛みで、彼の額は汗ばみ、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れ出た。
逃げることに必死だった彼の体は、怪我の痛みを無視し、彼を歩かせていた。だが、怪我の存在を自覚した今、もはやそれは無視できるものではない。彼の体は、忘れていた痛みを元に戻してしまった。「ま、待ってて!今から病院へ行こう!準備するからそこで──」
「ひっ!?だ、だめっ!」
慌てた母親は、病院へ向かおうとする。焦る母親の言葉を聞いた途端、彼は必死に止めた。いま外に出れば、アレが、あの生き物がいる。車の中のヒトも引きずり出して喰ってしまうバケモノが。
「だめって…でもその怪我、すぐに病院へ行かないと!」
「いや、今は…今は駄目…それより、包帯!包帯とガーゼ持ってきて!圧迫止血するから!…ガァッ!」
「わ、分かった…持ってくるね」
彼に急かされるまま、母親は部屋の奥に入る。
しばらくして、母親は包帯とガーゼ、それから消毒薬を持ってきた。「はい。ガーゼと包帯と…消毒薬。大丈夫?服は脱げる?」
母親に手伝われながら、彼は上着とズボンを脱ぎ、ゆっくりと廊下に座った。
「まず先に消毒を──」
「消毒はいい。傷が深いから…先に、止血を…ウッ…いたっ…」
彼は、パックリ開いた傷にガーゼを押し当てる。それから包帯を強く巻き、しっかりと縛った。
「はい、タオル」
「ありがと」
母親が、彼に濡れたタオルを渡す。血で染まった靴下を脱ぎ、彼は足をタオルで拭き取った。
「おいおい、どうした?」
この騒動をききつけたのだろう。廊下の奥から、彼の父親が歩いてきた。
「この子、怪我して帰ってきたみたいで…」
「怪我って…どんな怪我だ?」
「えーっと…」
彼は、怪我の様子を思い浮かべながら、慎重に答えた。
「…深さおよそ1cm、幅およそ1.0から1.2cmの…切り傷」
「そんな細かくなくていい。重症じゃないか…すぐに病院に──」
「だ、だめっ!」
母親と同じく病院へ行こうとする父親を、彼は再び止める。
「どうしてだめなの?」
「だって──」
外には怪物がいる。そう言おうとしたとき、彼は口を止めた。そう言ったところで、はたして両親は信じるだろうか。
いつもみたく、変なことを言っているのだと言われて、病院へ行こうとするのではないだろうか。もし、無理矢理にでも連れ出されたら…「…だって、夜中に来られたら病院が迷惑するでしょ?」
「なに言ってるの!そんな大怪我、むしろ行かなきゃ駄目でしょ!?」
「大丈夫、ただの怪我だから…それに、もっと重症の人が他にもいるって。そういう人が行くべきなんだよ…」
「でも──」
「明日!ね?行くのは明日!明日の朝に──ウッ…?」
そこまで言いかけたとき、彼の視界がぐらりと歪んだ。
平衡感覚がおかしい。頭がぼんやりとする。彼はそのまま、廊下にバタリと倒れてしまった。「大丈夫!?ねぇ、しっかりして!」
母親の声が聞こえる。だが、頭がクラクラして、なんだか聞こえ方がおかしい。
「出ないで…」
意識が朦朧とする中、彼は何度も呟いた。
「出ないで…家から出ないで…出ちゃだめ…出ちゃ…」
何度も何度も、うわ言のように呟きながら、彼は意識を失ってしまった。